「分別」という言葉は仏教から生まれ、仏教にとって重要な思想を示す不可欠な用語です。
普通、分別といえば、よい意味では「分別がある」「分別盛り」といわれ、それは物分かりのいい人という意味であり、悪い意味では「分別くさい」「分別顔」といわれ、それは嫌な奴という意味あいで使われている。しかし、悪い意味での使われ方は、分別のあることを自慢する場合であって、分別という言葉それ自体はよい意味で用いられている。世間の常識に基づいて、事物の善悪や正邪や、条理をきちんとわきまえ、その識見に基づいた判断をするとき、分別があるといわれ、世間の常識からはずれると、分別がないと批判されたりする。従って、分別は世間においては必要なことなのです。
ところが、仏教では、この分別がくせ者であり、仏道の障りとされる。「虚妄分別」(邪まな世界を作り出す分別)という言い方に代表されるように、この分別によって、私たちに苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方である。仏教にとって分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。この分別によって、自己中心的な固執が生まれ、それによって苦悩が生まれる。仏教では「煩悩は分別によって生まれ、分別は戯論(言葉によって固執の世界を虚構すること)によって生まれる」と説かれる。私たちの世界は言葉によって虚構され、その虚構によって自己と自己所有に対する固執が生じ、勝れた他と比較して劣等感を抱いたり、劣った他と比較して優越感を抱いたりする。その分別によって煩悩(苦悩)が生まれる。
人間は善悪・正邪の分別なしでは生きられないが、その分別によって人間は苦悩する。そうした分別の本質が明らかになるとき、分別は分別のままにそれに固執しない智慧の世界が開かれる、それを「無分別智(分別を超えた智慧)」という。それは分別のない世界ではなく、分別の本質を知見し、分別が障りとならなくなる世界である。