薪流会

薪流会とは?

 「薪流会」会名の由来について

上の漢詩から、「薪流」の文字をとり、総裁が命名されました。

作者は広瀬淡窗(ひろせたんそう)[1782ー1856]豊後(現在の大分県)日田に生まれました。江戸末期の儒学者であり、詩人でもあり、名は健、字は子基、号は淡窗といい、今様にいうなら教育者でした。

江戸末私塾の代表で大村益次郎らを輩出

淡窗は、十六歳から十八歳まで筑後(博多)の亀井南溟およびその子、昭陽に教えを受けました。病弱で養生の傍ら独学に勤め、二十五歳で自宅に塾を開きました。以後安政三年、七十五歳で亡くなるまでの五十年間塾生を教育し、その数三千〜四千有余人といいます。そのなかには大村益次郎、高野長英、清野奎吾などの人材が輩出されています。
桂林荘というのは、淡窗が二十五歳の時、日田の豆田裏町に築いた塾名です。その後塾生が増えたので、三十歳の時堀田村に咸宜園は、京都、伊藤家の古義堂、大阪、中井家の懐徳堂、同じく大阪の適塾(緒方洪庵)あるいは、松下村塾(吉田松陰)などとともに江戸末私塾の代表に数えられています。

生活に根ざした、全人教育思想

冒頭の詩は、桂林荘における塾生たちの生活を題材に塾生たちを励ました詩、四首の中の一首です。「道ふを休めよ」と言う言葉は、泣き言を言うな、とか弁解をするな、という厳しい意であります。まずはじめにこのように断定するところは、我が禅門の庭詰を想起します。そしてここには志を同じくする多くの友があり、一つの袍(どてら)も共に着るような親友もできるではないか。朝早く柴の戸を開けて外に出ると、霜が雪のように真白に降りている。さぁ、朝の炊事の支度だ。君は川の水を汲んできたまえ、我は薪を拾いに行くから。というのが大意であり、淡窗の教育者としての根底には、学問の修行は一人だけで行うものではなく、志を同じくする者同士が助け合ってするものであるという共同生活に根ざした、全人教育思想があるといえます。これもまた、僧堂生活に似たものを感じざるをえません。
以上が会名についての大まかな件であります。本会も、会員の研鑽と親睦を計る中で、真の互恵の念を育み、本会の眼目である「上求菩提・下化衆生」の実践活動に力強く前進したく願っておるしだいであります。

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